<超現象-7> | キャリアウーマンのそれぞれ -「タレントの卵・営業日誌」連載中-

<超現象-7>

この記事は<超現象ー1> からの続きです。
先にお読みになってから、この記事をお楽しみ下さい。


(順にリンクを辿っていけるようにしてあります。)



ストーリー仕立てになっておりますが、こちらは実話です。






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4才まで一人っ子状態だった私に、妹が出来たのですが・・・一度に2人の妹を持つこととなりました。

そう・・妹たちは双子だったのです。

妹たちは2人同時に生まれてきたので、当然抱っこも両親が1人づつします。
今まで、両親を1人締め状態だった私は、拗ねやすい子になっていたようです。


両親の膝の上が妹たちにそれぞれ占領されているので、私の座る膝が空いてないと
「・・・・・私はいらない子なの?・・・・・」
と、確認して、両親を困らせたそうです。


そんなわがまま状態も幼稚園に行くようになってからは、自然となくなったそうです。
家にいる時間が短くなったら、そんなことも気にならなくなったのかも知れません。





幼稚園に行ってからの私は、回りのお友達の感情を読み取ってしまうのか
お友達と仲良くするのが怖くて、一人遊びばかりしていました。


元々、病気のせいもあって、外遊びをさせてもらえない子だったので
同じような年頃のお友達と遊んだ経験値が少なかったのもあると思いますが・・・。


小さい子供は自分の感情を押さえると言うことを知りませんから
回りの感情の波動をストレートに受け取って、疲れるのでしょう。
大抵、1人で遊んでいることが多かったです。


これも、今、思い出してみると・・・と言う感じです。
当時は「集団生活の出来ない子」という評価を受けていたと思います。



小学校に上がってからも、担任の先生の言わんとすることを先に読み取れるので
学校勉強的には優等生的でした。

激しい体育の授業以外は、徐々に参加させてもらえるほどに体は回復していましたが
プールの授業は心臓への負担が大きいと言うことで、プール授業の始まる前には
毎年心電図を取りに行き、医者の診断書を提出して、やっとプール授業の許可が出る・・・
そんな状態が、小学校卒業くらいまで続きました。


ただ、学校は形式上のものが欲しかっただけのようです。
万が一、私に発作が起きても、学校が責任を取らなくてもいいようにとの意味合いだったのだと思います。


だって、毎年、夏には田舎へ帰ったら、目の前の「どこでもプライベートビーチ」で
いつも泳いで遊んでいたのですから(笑)




調度、私が幼稚園へ入園する前後から、入退院を繰り返していた母方の祖父は
小学校へ上がる頃には、自宅で半分寝たきりのような状態になっていました。

毎年のように帰省するので、会うと必ず祖父が自分の寝床へ手招きし
「みきか?顔色が良くなったようだな。学校は楽しいか?いじめられてないか?」
と必ず聞かれていました。



多分、私の体が弱いことで、学校の友達にいじめられたりしないか?など
祖父は心配で心配でたまらなかったようです。


「次に発作が起きたら・・・
 処置が、オペが、間に合わなかったら・・・
 みきにはもう会えないかもしれない・・・。」


そう思うだけでも辛かったでしょう。




祖父は、年老いて痩せ衰えていく自分よりも、私のことを心配してくれてたのだと思います。

でも、幼い私は、やせ細った祖父を見て可哀想と言う気持ちよりも
祖父の細い指で頬を撫でられることが怖かったのです。


今から考えると、本当に爺不幸な孫だったと反省しています。
自分の死期が近づいても、沢山いる孫の中でも
いつも私のことを優先して、心配し続けてくれていたのに・・・。




その優しい祖父が亡くなったのは、私が小学校3年生の冬のことでした。
お友達の家で遊んで帰ってくると、母が泣きながら着替えや喪服を鞄に詰めているところでした。


何も知らない私が無邪気に「どこいくの?」と聞くと、泣き顔の母が小声で

「お父さんが・・・みきのおじいちゃんが・・・死んじゃったんだって。
 さっき、連絡が入ったの。 だから、帰る用意をしてるのよ。」

と、荷造りの手を止めずに返事をしてくれました。



私は母が泣いている姿をほとんど見た記憶がなかったので
とても悪いことを聞いたような気がして、胸が痛みました。


「何か・・・することある・・・?」


小学校3年生では、手伝いをするにしても、まだまだ足手まといになる年齢です。
それでも、何かをしてあげたい気持ちを、足りない言葉ですが
自分なりに一生懸命、表現したつもりでした。




でも、母は・・・

「用意は全部、お母さんがするから・・・。
 お父さんが帰るまで、妹たちの面倒だけ見ててくれたらいいから。」

そう言って、私に背中を向けて荷造りを続けました。





母の後姿を見ていた私に出来ることは、まだ5才にならない妹たちに
「おじいちゃんが死んで、お母さんが準備をしてて大変なんだよ」と
それを教えることだと思い、一生懸命に伝えました。


「ふ~ん・・・じゃあ、また田舎に行くんだ~」


妹たちはとてもうれしそうでした。





考えてみれば、夏休みに遊びに行く場所なのですから
またみんな集まって楽しく遊べることを期待しても当然だと思います。
妹たちは幼稚園の年中さんになる寸前の年齢だったのですから。






突然、妹のうちの1人が、涙を浮かべて荷造りする母の後ろへ駆け寄り

「ねぇねぇ、お母さん!お荷物の中に水着、入れてくれた?」

と確認しました(苦笑)




この話しは今でも家族が集まった時の語り草になります。

田舎がいくら南の島だとはいえ、日本です。
ハワイではないのですから、1年中泳げると考える方が不思議なのは
当時小学生だった私にもわかりました。

2年保育の幼稚園に上がる寸前の年齢では、まだわからなかったのかもしれませんねぇ(笑)



そうこうしているうちに、いつもより早い時間に父が仕事を終えて帰宅し
翌朝、一番早い飛行機で、祖父の葬儀に向けて帰省することとなりました。







こんなところで続きかよ?!と思っても 1クリックヨロシク<(_ _*)> (笑)人気ブログランキング